八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)=大国主神の御子

 出雲国で父神、大国主神を輔けて国政に与ったが、
天照皇大神(あまてらすすめおほかみ)が国土を天孫、
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に献上するようにと仰せられた時、
父神に勧めて、その命を奉じさせたと伝えられている。
即ち我が建国の基礎と君臣の大義とを確立されたと云うべきであって、
国譲りの大功によって高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、
保食神(うけもちのかみ)たちと同列に皇室の守護とせられたのであります。
故に古来より、国土開拓の神として農工商などすべての産業繁栄、
五穀豊穣、開運招福、長寿健康、交通航海の守護神として、
又縁結びの神として、”戎さん”の敬称でよばれ、
すべての人々に親しまれて、広く厚く信仰をされています。

 
 大巳貴神(おおなむちのかみ)=大国主神の御別名。八重事代主神の御父

 少彦名神(すくなひこなのかみ)と協力して国家を経営し、畜産の業を起こし、
鳥獣昆虫の災異を攘ひ、医療、医業、禁厭(まじない)などの道を教えられ、
すべての民が悉くその恩沢を蒙りました.
また、天照皇大神の命に随い御子の事代主神とはかって、国土を
天孫瓊瓊杵尊に献上され、その後、出雲杵築の地に隠退されました。
そこで天照皇大神が大国主神のために壮大な宮殿をたてられ、
天照皇大神の御子、天穂日神(あめのほひのかみ)をして奉祀させられたのが、
出雲大社の起源とされます。
大物主神(おおものぬし)・大国魂神(おおくにたま)・八千矛神(やちほこ)など
数多くの御神名があって、それぞれの御神徳があり、特に”戎さん”と並んで、
諸業繁栄、開運招福、縁結びは勿論のこと、医療の祖神であられますから
諸病を癒し給う事著しく、殊に婦人の病気平癒、安産、子授け、
そして延命などの福神として限りない崇敬と信仰を集められています。

 
 天穂日神(あめのほひのかみ)=天照大神の御子

 天照皇大神の詔命を奉じて、天孫降臨に先立ち選ばれて出雲国に降り、
大巳貴神(大国主神)と国土奉献の交渉に当たられ和議を成立されました。
のち出雲大社の主神である大巳貴神(大国主神)の祭祀の祭主となられ、
出雲国造の祖として栄え、その神裔は連綿として継承されています。
当宮は大昔の時代にこの御神霊を勧請申し上げておりますが、
国土安泰、災難厄除け、家内安全、産業(農・工・商)繁栄、
殊に外交の神として皆様の信仰が篤いのです。

 
 野見宿祢神(のみのすくねのかみ)=天穂日神の孫(十四世)

 第十一代垂仁天皇(西暦前29〜西暦70)の御時、
当麻(たいま)の蹶速(けはや)と云う男が、
「我が力に勝れる者は、四方の国中にいないだろう」
と誇っているのを天皇がお聞きになり、
出雲国の大勇力のある野見宿祢を召されて力競べをさせられ、
宿祢は見事に蹶速を負かし、
その功を賞して蹶速の領地を賜わる
(これが相撲の始まりとも伝えられている)。
また、当時は天皇・皇后が崩御されると、
仕えていた側近等は生きながら埋められる死という悪習がありましたが、
これを埴輪を作って殉死にかえる事を献言。
天皇は大いに喜ばれ、御採用になる(これが埴輪の始まり)など、
智勇共に優れていました。その後、当宮の神主に任名されました。
勝負(相撲・野球・ゴルフなどの競技)や知恵、発想(アイデア)の祖神として、
又、古来より出世開運の神として特に相撲力士の信仰が篤いのです。 

野見宿祢神
 
 菅原道真(すがわらみちざね)公=野見宿祢神の子孫

 平安前期、詩文に長じた学者・政治家として菅公の名で知られています。
宇多天皇に仕えて信任を受け、醍醐天皇の時、
一層重用せられて左大臣、藤原時平と並んで右大臣に任ぜられましたが、
、延喜元年(西暦901)時平の中傷により大宰府権帥(ごんのそち)に左遷せられ、
堂三年二月二十五日、五十九歳を以て配所で亡くなりました。
延長元年(西暦923)になって道真公の免罪ははれて白日の輝くときがきました。
鎌倉時代に入ると、進んで免罪を救う神として利生を垂れ、
どのような所願でも必ず成就させるという慈悲救済の神としての域に到達し、
文道・諸道・芸能などの神として異例の尊崇を受けられています。

 
 
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