御由緒


「和泉名所図会」巻二 『上石津社』 寛政八年(1796)

当宮は延喜式神名帳にも見られる日本最古の戎神の宮として、広大無辺の御伸徳を垂れ給い、石津の地はもとより、付近各地の人々の心の拠り処として篤い崇敬を集めております。

社伝を抜萃しますと、
・往古、事代主神、此地に降臨のとき五色の神石を携え来りて此に置き給う、故に石津と名づく。
・人皇十一代垂仁天皇の御宇、天穂日命十四世孫、野見宿祢を当宮の神主と定め給う。
・仁徳天皇、石津に行幸あり、祈年穀の祭には、毎年官弊使を立て給う。
・孝徳天皇、白雉三年(西暦652)に当宮に行幸ましまして此時、御手洗川に御鏡を落とし給う。是れに依りて御手洗川を益鏡の小川と云う。(石津川)
・孝謙天皇、天平勝宝元年(西暦749)に行幸し給い同五年春正月、神主紀伊守を内裏に召して,従三位大納言を授けられ、河内の狭山・野田の二村を神領とせられる。当時は社頭も広く、新堂の岸を西にして、それより八町四方に及ぶ。大社と云える事は、柱は太く板は厚く造り、社頭は巍
々とし殿宇は厳然として広大結構類なく、出雲大社に次ぐ御社なればなるべし。その後兵火の為に社殿悉く烏有に帰し、広大なる神領も失われ、後、漸次建営せり。
・後醍醐天皇行幸し給ひて奉弊し給い、その上、神官に冠、及び沓を賜わる。
元禄十年(西暦1697)征夷大将軍、徳川綱吉公より神田八石九斗余の貢米を免ぜられ朱印地を賜わり、河内四郡及び堺の付近は悉くその氏子なりき。
桜町天皇の寛保三年(西暦1743)飛騨守石津連、陸野茂基を従六位下に叙せらる。
以上のように朝廷武家の尊崇が篤く、これは偏に御神威の重きによるものであります。



 
 
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